「失われた30年」に何が失われたのか?

よく「失われた30年」と言われますが、一体何が失われたのでしょうか?

日本はこの30年間で名目GDPが1.35倍になりました。G7各国と比較しても著しく低い成長率です。30年間の伸びをG7各国と比較すると、アメリカは3.7倍。イギリスは2.5倍、フランスは2.3倍、ドイツは2.3倍、カナダは3.2倍、イタリアは1.7倍と、イタリアを除いて2倍以上の規模になっています。ちなみに韓国は5.5倍、中国にいたっては43倍の規模になっています。

労働者の実質ベースの平均年収も上がりませんでした。IMFのデータで見てみると、1991年〜2021年の30年で4.8%の増加でした。同様に各国の上昇率を見てみると、アメリカは52%、イギリスは51%、フランスは34%、ドイツは34%、カナダは38%、イタリアは0.3%でした。イタリアを除くとG7各国は30%〜50%増加しています。ちなみに韓国は86%の増加率でした。すでに金額ベースでも日本は韓国に追い抜かれています。

そのような状況でも物価が上がらなかったことで、均衡がとれてきました。そうなると日本の消費者は値上げには敏感になってきます。企業も値上げによって売上が減少するのを恐れて値上げには踏み切れません。ところが原材料を輸入に頼る日本企業は、そのコスト上昇を吸収するために、価格を据え置いたままで、量(質?)を減らす「ステルス値上げ」という方法を考えました。消費者の反応は非常に悪かったのですが、販売価格を変えないという苦肉の策だったのです。

その間、給与が上がらない労働者は、残業手当を稼ぐことによってなんとか生活防衛を果たしていました。しかし、過労死等の問題が続出し労働時間の短縮が社会の課題になったとき、働き方改革関連法案によって、労働時間に法律的な制限がかかるようになりました。いくら努力しても給与が上がらない社会の中で、労働者は「ステルス賃上げ」に走りました。つまり、上がらない給与に見合った働きしかしない、という働き方です。努力が報われない以上努力するのをやめてしまう労働者が増えていったのです。失われた30年に失われたことの中で、「労働者の働く意欲」の低下というのが最も大きな損失だったのではないかと思います。

日本のビジネスマンの「意欲」が問われる

アメリカの調査会社ギャラップの「ギャラップエンゲージメントサーベイ」では、様々な指標を用いて労働者の仕事に対する「意欲」を測っています。2021年のレポートによると「意欲的」が20%、「意欲的ではない」が61%、「不幸のあまり会社の足を引っぱる」が19%でした。まさにパレートの法則が当てはまります。「意欲的」な労働者の比率を国、エリア別に見てみると、アメリカ・カナダが34%、ラテンアメリカが24%、西欧が11%、東欧が21%、豪州・ニュージーランドが20%、中国が17%、韓国が12%で、日本はダントツに低い5%でした。なかでも日本は「不幸のあまり会社の足を引っぱる」という労働者の比率が20%を超え25%に迫る勢いです。個々の企業で違うと思いますが、日本全体で見ると「意欲的な人」は20人に1人。「不幸のあまり会社の足を引っぱる人」は4人に1人ということになります。

企業という組織には「腸内フローラ」ならぬ「人材フローラ」のようなものが存在しているのかも知れません。「腸内フローラ」とは、腸の中に住み着いている腸内細菌叢(さいきんそう)のことで、そこには100兆〜1000兆個の腸内細菌が住み着いており、様々な働きをしています。腸内細菌は「善玉菌」「日和見菌」「悪玉菌」に分類されます。「善玉菌」が優勢なときは「日和見菌」が善玉菌に近い働きをするし、「悪玉菌」が優勢なときは「日和見菌」が「悪玉菌」に近い働きをします。企業の中に「意欲的な人(善玉)」がある一定数存在し、彼らが活躍することで「意欲的ではない人(日和見)」に影響を与え、企業全体をよい方向に向かわせることが可能になるのではないかと考えられます。全ての労働者が「意欲」を持って働けるような労働環境が作れればいいのですが、それは理想です。しかし、社内の20%〜30%の社員を「意欲」を持って働く人たちに変えることができれば、全体的に意欲的な集団になっていくでしょう。

2023年は労働者の「意欲」を高める環境が整ってくる年になるかもしれません。新型コロナウイルスのパンデミックからの経済回復が進み需要が増加したところに、ロシアのウクライナ侵攻によるグローバルなサプライチェーンの分断が起こり供給が減少しました。このため、世界的なインフレが始まっています。なかなか物価の上がらない日本も値上げがあいつぎ、いよいよインフレが本格化してきました。加えて2022年の後半の急速な円安傾向により製造業を中心に収益が改善しています。これを背景に労働組合の連合は、28年ぶりに5%の賃上げを要求。経営者サイドも賃上げに対して前向きになっており、全体的に賃上げムードが高まっています。値上げは企業の業績に大きく寄与します。意欲的な労働者の努力に報いる賃上げも実施できるので、このチャンスを活かすことができれば「分配」と「成長」の好循環が始まるきっかけになっていくことになるでしょう。

「ゾンビ企業」の淘汰と人材の流動化の兆し

2020年に新型コロナウイルス禍で売上が減少した企業に対し特別な融資制度が設置されました。実質無利子、無担保で融資する仕組みで、通称「ゼロゼロ融資」と言われています。2020年3月に制度がスタートし、初期は政府系金融機関が中心でしたが、2020年5月からは民間金融機関で扱うようになりました。融資実績は244万社、42兆円となっています。これによって2020年の倒産件数は一気に減りました。この融資を受けるハードルは低く、倒産してもおかしくない企業を延命させたとも言われています。しかし、2022年の春頃からじわじわと倒産件数は増加し前年の2.6倍に達しました。さらに、ゼロゼロ融資に対する返済が2023年7月から本格化します。今年の後半はさらに倒産件数が増えることになるかもしれません。

実質的に倒産状態であるにもかかわらず、営業を継続している企業を「ゾンビ企業」と呼びます。金融機関や取引先などに「支払うべきものを支払えない」状態が続いている企業やバランスシート上で債務超過にある企業のことを指します。帝国データバンクによれば2022年11月時点で18万8,000社にのぼり、ゾンビ企業率は12.9%にのぼります。8割がコロナ関連融資を受け、約2割が返済に不安を感じていると答えています。新型コロナウイルス禍の影響で、全体の1割強もの企業が金融機関から返済猶予などにより延命している実態が明らかになりました。ゾンビ企業が増えることで何が起こるのかというと、ゾンビ企業は投資ができず、賃上げをすることもできないどころか、むしろ下がることさえあります。

経済同友会の櫻田代表幹事は 平均賃金アップに必要なこととは? というインタビューに対し、「企業の数が多すぎる、小さすぎるため、生産性・利益率が低くなっている」ことを指摘しています。日本の賃金水準を引き上げるには「中小企業が合併や大企業の傘下に入るなどして『中小企業を脱していく』ことが必要と述べ、賃上げできない利益率の低い企業の廃業を促すべきだし、働き手がより給与の高い企業に転職できるよう、学び直しの機会など公的な仕組みの強化も必要」と答えました。従来このような中小企業淘汰論が出てくると、SNSなどで炎上を呼ぶことが多かったのですが、今回はあまり炎上することもなく、市場にもこの考え方が容認されるムードが出てきたのかも知れません。

ゾンビ企業がこれからも増加し、仮に20万社になったとき、1社あたり20人の従業員がいると仮定すると、400万人の労働力が塩漬けになっていることになります。これは、日本の労働人口6,724万人の約6%に当たります。櫻田代表幹事のいうように、「賃上げできない利益率の低い企業の廃業を促すべきだし、働き手がより給与の高い企業に転職できるよう、学び直しの機会など公的な仕組みが強化」されるようになると、ゾンビ企業の市場からの退場を促し、塩漬けになっていた労働者が新たな職場を求めて労働市場に解き放たれることになります。

リスキリングは労働市場の流動性が上がることで本来の効果を発揮する

それでは今、人材は足りているのでしょうか? エン・ジャパンの調査 によると従業員100名以上の企業の90%が人材不足を感じていると答えています。人材が不足している要因は「退職による欠員」:60%、「中途採用で人材確保ができなかった」:43%、「既存業務の拡大」:26%となっており、その対応として「人材採用を強化」:76%、「既存の業務を効率化する」:30%、「既存社員の教育、能力向上」:27%と答えています。76%の企業が人材採用を強化することで人材を確保できたとして、その人材はどこか別の会社を退職するわけで、退職された会社は欠員に対応するためにさらに人材採用を強化するという循環が始まります。こうなると人材の取り合いになるわけですが、企業の優秀な人材への渇望感が増すにつれ、人材の流動化は促進されることになりそうです。

2022年11月に経団連が「中途採用」という表記を「経験者採用」と改めるという発表がありました。新卒一括採用から終身雇用の流れがあって、途中からその流れに参加するから「中途」という言葉を使っていたのではないかと思います。しかし、多くの企業が新卒一括採用だけではこの変化の激しい時代に対応する人材が確保できない、ということに気づいたのではないでしょうか。その意味で従来の「メンバーシップ型」の雇用形態から「ジョブ型」の雇用形態に移行することを模索しているのではないでしょうか。企業は新しい時代に対応できる人材を求めているのだと思います。労働者がそのような企業のニーズに対応していくためには「リスキリング」は欠かせません。そして「リスキリング」を達成した労働者の活躍の場を拡げるためには、労働市場の流動性を高めることが求められるのです。

多くの企業が自社の社員のリスキリング・プログラムを動かし始めました。最も不足すると言われているデジタル人材の育成に力を注ぎ、特に「データサイエンティスト」の育成のための教育を盛んに行っています。「データサイエンティスト」は、データ分析に特化し、数学やコンピュータサイエンスに精通。データから顧客行動を読み解く、という花形の職種です。

ところがアメリカの人気職種ランキングを見てみると、大きな異変が起こっています。2022年の「グラスドア」のランキングでトップとなったのは「EA(エンタープライズ・アーキテクト)」でした。企業のシステムは多くの技術で構成されています。複数の部門にまたがっているケースも多々あります。これをビジネスの業務プロセスと付き合わせて最適な仕組みを構築するのが「EA」の役割です。「EA」の人気が高まっている背景には、デジタル分野の仕事が細分化する中で全体を俯瞰し、全体最適を図る人材が求められているということだと思います。このように、数年で求められる人材が変化していくなかで、労働者は自身のキャリアをどのようにデザインしていけばよいのでしょうか?

激変の時代に対応できる「キャリア・デザイン」を考えるために

先を読むことが難しい変化の激しい時代を称して「VUCA」の時代と言います。「VUCA」とは「Volatility(変動性)」「Uncertainty(不確実性)」「Complexity(複雑性)」「Ambiguity(曖昧性)」の4つの言葉の頭文字をならべたものです。

「VUCA」の時代に対応するために、以下のことが求められると考えています。

1)明確なビジョン
激変する環境に、対応しなければならないとき、対症療法になりがち。明確なビジョンを持つことで、一貫性のある対応策を打ち出すことができる。

2)変化を恐れないマインドセット
これまでのやり方では通用しなくなるケースが多発する。新しいことを肯定的に捉え、チャレンジするマインドセットが求められる。
たとえこれまで身につけてきたスキルを捨ててでもリスキリングする。(別に捨てる必要はないのですが)

3)情報収集、学習を継続的に行う
急激な変化を常に捉える必要がある。そのために情報収集・学習は欠かせない。しかも変化は常に連鎖する。継続的にウォッチすることが重要となる。

つまり激変の時代に自分自身の「キャリア・デザイン」を考えるとき、少なくとも10年後(20年後でも30年後でもいいのですが…)の自分のありたい姿を思い描き、それを「キャリア・ビジョン」として明確にしておく必要があります。そして、そのゴールにたどり着くためのステップを1〜2年ごとのマイルストンとして設定する。もし環境が激変しても、明確な「キャリア・ビジョン」があれば、そこにたどり着くための新たな途を探すことができるのではないでしょうか?

そんなわけで、2023年は、仕事を通してありたい姿を明確に思い描く「キャリア・ビジョン」が問われるようになっていくと思います。「キャリア・ビジョン」によって、なぜその仕事を選ぶのか?なぜそのキャリアを選ぶのか?なぜそのスキルを身につけようと思うのか?の問いに対する答えがみつかり、冒頭に申し上げたように「意欲」を持って仕事に取り組むことができるようになるのだと思います。