スマホのようなカメラで
スマホユーザーにカメラを売る
〜『PowerShot V10』(キヤノン)〜 後編
キヤノンが6月22日に発売したVlog(ビデオブログ)カメラ「PowerShot V10」が大きな話題になっている。本来のターゲットであるユーチューバーをはじめとしたビデオブロガーはもちろんのこと、気軽に動画を楽しみたいという普段使いのカメラとしても人気が高まっているようだ。PowerShot V10は市場と消費者の今の気持ちを射貫いた見事な商品だが、企画メンバーとして活躍した大辻聡史氏は、カメラの企画に携わったのは今回が初めてだという。今回の後編では、大辻氏がPowerShot V10の企画に携わるまでの経緯について話を伺った。
社内にいる新規事業を目指す社員たちが
相互に交流して新たな価値を生み出す
角氏(以下、敬称略)●「PowerShot V10」(以下、V10)は発売前からネット上で話題となっていましたが、発売後もたくさんのファンを獲得しています。スマートフォンのように片手でも操作でき、ライブ配信にも対応するなど誰でも簡単に動画が楽しめるというV10の商品コンセプトが見事受け入れられた結果ですね。大辻さんはそもそもカメラに詳しかったのですか。
大辻氏(以下、敬称略)●ありがとうございます。おかげさまで好調な出だしにほっとしています。実はカメラの企画に携わったのはV10が初めてなんです。
キヤノンに入社して最初は材料開発部門で有機合成の研究開発をしていました。話が壮大になってしまうのですが、私は地球環境の改善に貢献したいと考えて化学系の修士課程に進みました。そして化学の研究で生み出される数々の小さな発明を大きな効果につなげるには、グローバルに展開している企業で成果を出すことが近道だろうと考え、キヤノンを選びました。
キヤノンは売り上げの比率が日本よりも海外の方が高く、グローバルに広く展開している会社です。この会社で世の中に役立つ発明をすれば、世界に対して大きな効果を提供できるだろうと期待して入社しました。
ただしキヤノンに入社して最初から新規事業を担当するのではなく、キヤノンの良さや強みを理解した上で新規事業に取り組まなければ、キヤノンの価値を生かせないと考えました。この話をキャリアプランを担当する当時の面接官に話すと、「とにかくまずは与えられた仕事を一生懸命やりなさい」と諭されました。
角●それでおとなしく新規事業のことはしばらく忘れて、担当する業務に打ち込んだのですか。
大辻●キヤノンの価値を生み出している事業において開発と生産を経験しました。その一つが既存製品の機能向上のための研究開発です。機能向上のための要素検討が完了し、その技術を製品に組み込み、動かし、製品が完成しても、それはまだ検討段階での試作開発ができたという段階です。
キヤノンではコンシューマー向けの商品を開発しています。そのため量産できなければお客さまに届けることはできません。この試作段階から量産可能な製品にするためには大きなハードルがあり、実際にお客さまに使っていただく段階まで、なかなか到達できないのです。
また、研究開発した成果を量産で実現するには量産時の生産や品質の管理といった別のテクノロジーも必要になります。そこで自分たちで研究開発した製品を量産できるようにして商品化するために、量産する工場に通って生産管理や品質管理も研究しながら学びました。
角●大辻さんは根っからの探究者ですね。新規事業ではなくてもこれだけ没頭できる情熱をお持ちなのは素晴らしいことですね。
大辻●ありがとうございます。でも新規事業を生み出して世に送り出すためにキヤノンに入社したことに対してジレンマは常にありました。そんな気持ちをある飲み会で先輩たちに話したら、社内に新規事業を起こそうと勉強している人たちがたくさんいると教えてくれたのです。
例えば当時、まだ世の中に言葉が浸透し始めたところであった機械学習についていち早く取り組んでいる方がいたり、光学技術を活用した新しい価値の提案に挑戦する方がいたりするなど、社内にたくさんの同志がいることに気が付きました。
この熱い情熱を持った方々は、当時いくつかのチームに分かれて勉強会の形で活動していましたが、キヤノンには多くの事業部門があり、拠点も日本各地にあるため相互の交流はあまりありませんでした。そこでこの人たちをつなげば、新しい何かが生まれるのではないか、それが新規事業を起こすことにつながるのではないか、そう考えて相互に交流する会を立ち上げ「MIP」と名付けました。
MIPの活動は現在も継続しており、今ではグループ会社を巻き込んで600人以上の方々に情報発信するコミュニティになりました。ちなみにMIPとはキヤノンのスローガンである「make it possible with canon」の頭文字です。
「システム2」を意図的に動かせる人が
新しい価値や事業を生み出す
角●MIPの活動を経ていよいよ新規事業に携わる機会を得られたわけですね。
大辻●MIPを通じて社内の多様な部門の人とのつながりを持つことができ、視野も広がりました。そして新規事業の企画をしたいという希望もかない、2019年5月にイメージコミュニケーション事業本部の新規事業開発を担当する部署に異動しました。この部門では既存のカメラの後継機種の企画だけではなく、市場動向や自分の気付きからのさまざまなアイデアの中から厳選して、そのアイデアを製品像に落とし込み、ヒアリングや外部の展示会などでユーザーから意見を聞き、ブラッシュアップしながら商品開発を進めるという取り組みもしています。
ちなみに前編でお話ししましたが、V10はこの取り組みとは異なるプロセスでキヤノンのカメラをより多くの方に手に取ってもらうことをテーマとして、デザイン思考を活用した進め方で製品化しました。
角●大辻さんはV10でカメラの開発に初めて携わったということですが、もちろん製品を開発するに当たりたくさんの勉強をされたことと思いますが、一方で初めてだからこそ気付くことができたことも多かったのではないでしょうか。
というのも経験を積むほど「当たり前のこと、自明と思えること」が増えてしまいその分、気付きを得るきっかけを失ってしまうんですね。ですから自分とは異なる経験や価値観を持つ人との交流が大切だったりするわけです。その点でMIPでの活動は新しい価値や事業を生み出すことに役立っているのではないでしょうか。
心理学・行動経済学の世界では、人間には「システム1」と「システム2」という二つの認知の仕組みがあると言われています。例えば「3×5」は問われたら「15」と即座に答えられますよね。これは九九を暗記しているため、思考をショートカットしているからです。これがシステム1です。
一方で例えば「58×82」のような桁数が多く複雑な問題の答えを導き出すには時間とコストをかけてじっくり考えます。これがシステム2です。システム1は時間も労力もかからないので、システム1で思考する癖がつきやすいのです。
先ほどの知識が増えると気付きが得にくくなるというのも、システム1で思考する癖がついて新しい気付きが得られなくなることを意味しています。ですから新しい価値や事業を生み出すには、意識的にシステム2で思考する機会を増やすべきです。システム2をうまく使って物事の本質を洞察できる人ほど、新しい価値や事業を生み出しやすいと思います。