人材版伊藤レポートをどう読み解くか
本書のベースとなっているのは経済産業省の研究会「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクトが2014年に出した最終報告書(通称:伊藤レポート)と、一連の報告書だ。このプロジェクトは一橋大学の伊藤邦雄名誉教授を座長とし、2020年には「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」、2022年には「人的資本経営の実現に向けた検討会」へと続き、いわゆる「人材版伊藤レポート」が公開された。
人材版伊藤レポートで指摘されている日本企業の問題点は「世界でも指折りのイノベーティブな企業だったはずの日本企業が、収益率を示すROA(総資産利益率)やROS(売上高営業利益率)を見ると、欧米企業に倍の差をつけられ、この傾向が20年間にわたり続いてきたことにある」という。
80年代、アメリカに続く世界第2位のGDPを誇り、アメリカを追い抜くのではないかともてはやされた日本経済。だが89年のバブル崩壊以降、日本企業の収益性は急速に低下したままとなり、GDPでは中国に追い抜かれた。今や日本の平均賃金はOECD加盟国中24位とアメリカの半分以下、韓国にも抜かれてあえいでいる。
日本では未経験者である新卒を一括採用し、職場で先輩社員が業務をこなしながら指導するOJT(On the Job Training)で人を育ててきたと言われる。ところがテクノロジーの急激な進化、既存知識の陳腐化、何より国際的な競争激化によってこの仕組みが機能しなくなってきている。上司や先輩は新しい技術に対する知識が乏しく、企業は新人が育つのを待つ余裕がない。外部講師やeラーニングなどによるOffJTは、「世界比較で見ると驚くほど大きく見劣りする」という。
著者は、日本企業の衰退ぶりをPBR(Price Book-value Ratio:株価純資産比率)の低迷で指摘している。PBRは時価総額を純資産で割った値だが、1倍以下だと市場付加価値(知的資本、人的資本、製造資本など非財務資本)がマイナスの価値破壊状態と言える。多くの日本企業はリーマンショック以降1.0を割り込んでいる。これは「上場しているよりも即座に会社を解散して換金し、資金を債権者や株主に返還した方がよい」状態だ。2022年の調査では東京証券取引所プライム市場で47.2%と約半分の企業がPBR 1倍未満という結果であり、「投資家から見ると異常な状態が続いている」。バブル崩壊から日本経済は「失われた30年」と言われているが、このままだと失われた期間が40年、50年と続く恐れがあるという。
人的資本経営の情報開示が大切である
人材版伊藤レポート評価と並ぶ、もう1つの本書の柱が人材戦略に関する情報開示の推奨だ。これまで企業の情報開示としては上場企業であれば有価証券報告書であった。有価証券報告書は監督官庁である金融庁が定めたルールに従い、貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書を中心にまとめたもの。人材戦略を開示することは想定されていない。しかしリーマンショック以降、企業のあり方は株主資本主義から従業員・顧客・取引先・地域を含めた「社会の公器」としてのステークホルダー資本主義へ変わりつつある。
「ESG対応など長期的な視点で企業のサステナビリティや価値創造の実力を評価するためには、財務情報だけでは困難であることが自明となり、非財務情報の重要性がますます高まっていった」という。「ESG」とは環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字を取って作られた言葉のこと。先進的な企業は統合報告書やESGレポート、サステナビリティレポート、CSR(企業の社会的責任)レポートなど非財務情報の発信に力を入れている。
人材資本の情報開示としては、英国が早期から取り組み、2010年には「平等法」が成立し、その後「男女間賃金格差報告書制度」などを制定した。EUでは17年に大企業への人的資本開示が義務化され、2021年には「企業のサステナビリティ報告に関する指令」が出された、遅れ気味であった米国でも2019年に経営者ロビー団体が「ステークホルダー資本主義」を宣言、SEC(Securities and Exchange Commissionの略。投資家保護と公正な市場整備のため、1934年に設立された米国の連邦政府機関で常時、市場を監視している)が上場企業に人的資本の開示を義務化するなど流れが加速している。
欧米諸国の取り組みからは、日本での人的資本の開示は一段と遅れていると言わざるをえない。2014年に金融庁は、金融機関を中心とする機関投資家のあるべき姿を規定したガイダンス「日本版スチュワードシップ・コード」を公表した。2020年代以降に入ると内閣・内閣官房や経済産業省、金融庁、東京証券取引所などが「新しい資本主義」「人的資本に関する記載」「男女間の賃金格差の公表」などを打ち出している。
これらの取り組みはいずれも罰則がない努力目標であったり、財源の裏付けがなく、どこまで実現可能であるかは未知数だ。
本書は、企業自体の情報開示に対する意識の低さも指摘している。人的資本の開示に対する関心が高まりつつあるが、誰に向けて開示するのかが抜けているのではないかというのだ。「皆さん、情報開示していますよ」という他人の目を気にしすぎる同調圧力に押され、短期的で内向きな視点で開示しているポーズを取っているのではないか。機関投資家を対象に行われた2020年のアンケート調査によれば、投資家が着目する投資戦略では人材投資が67%と設備投資の3倍以上になっている。ところが同じ年に実施された企業対象の調査によれば、設備投資が55%で、人材投資は4位の32%と逆転している。投資家と企業経営者の人的資本経営に対する意識が大きくずれているのだ。
あるいは人的資本経営情報を開示していると言っても、ESG投資の環境によいように見せかけて実は大したことのない「グリーンウォッシュ」のような事例も想定される。開示情報が偽りや見せかけであった場合、最終的には投資家からの資金引き上げなど社会的制裁を受ける危険性があることを企業は意識すべきだという。
どのように人的資本経営が危ないのか
本書のタイトルである「日本の人的経営が危ない」だが、どのように危ないのか、私は読み取ることができなかった。謝辞では「人的資本経営は、日本においてはまだ始まったばかりの黎明期であり、現在進行形なのである」とあり、最後は「少しでも日本企業が地に足のついた人的資本経営を実現できるように、ともに歩んでいきたいと思う次第である」とまとめている。
つまり「危ない」のではなく、始まったばかりで、これから発展させたいというのが著者の主張だ。タイトルは著者ではなく、編集部で付けたのではないかと思われるが、いたずらに危機感を煽るようなになっているのは残念だ。
「はじめに」で著者は「本書では、時代背景による違いや他国との対比、人的資本に関わる立場の違いから導き出される多面的な洞察を通じて、今日的な人的資本の意義と、日本企業がかつて世界をリードした自負と自信を取り戻す手がかりを見つけ出すことが役割である」と述べている。人事制度や人的資本経営に即効性のあるハウツーを提供するお手軽な本ではない。資料や図表も豊富に取り入れられており、じっくりと読むことが求められる。人的資本経営に関わる経営者や人事担当者にとって、お勧めだ。
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